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米津玄師と宇多田ヒカルの新曲「JANE DOE(ジェーン ドウ)」は9月19日(金)より公開されている劇場版『チェンソーマン レゼ篇』のエンディングテーマとなっています。
この記事では「米津玄師と宇多田ヒカル」の「JANE DOE(ジェーン ドウ)」の歌詞の意味についての考察と歌詞に含まれるワードについての豆知識を書いています!
気軽に楽しみながら豆知識を増やしていきましょう〜!
米津玄師 × 宇多田ヒカル JANE DOE(ジェーン ドウ) 歌詞
<宇多田ヒカル パート>
まるでこの世界で 二人だけみたいだね
なんて少しだけ夢を見てしまっただけ
つまさきに月明かり花束の香り指に触れる指
さよならもう行かなきゃ
何もかも忘れて
ガラスの上を裸足のまま歩く
痛むごとに血が流れて落ちていく
お願いその若い足跡を辿って
会いに来て
<米津玄師 パート>
錆びたプールに放たれてく金魚
靴箱の中隠したリンゴ
しらびた君の肌に残る傷跡
夜の閣に泳いだ迷子
どこにいるの?
何をしてるの?
この世の間違いで満たそう
そばにいてよ遊びに行こうよ
どこにいるの?
<宇多田ヒカル パート>
ガラスの上を裸足のまま歩く
痛むごとに血が流れて落ちていく
お願いその若い足跡を辿って
会いに来て
<米津玄師 パート>
まるでこの世界でニ人だけみたいだね
<宇多田ヒカル/米津玄師 >
なんて少しだけ夢を見てしまっただけ
※歌詞は現時点で判明している部分を耳コピしたものになります。
米津玄師 × 宇多田ヒカル JANE DOE(ジェーン ドウ) 歌詞考察と豆知識
それでは歌詞考察と豆知識を合わせて書いていきます!
「まるでこの世界で二人だけ」―雨宿りから始まる夢の時間
歌詞の冒頭「まるでこの世界で二人だけみたいだね」。
これは映画のある場面、思わぬ雨宿りから始まる出会いを連想させます。
誰もいない夜の街、ふと心が触れ合った瞬間の甘い錯覚。
それはあまりに短く、あまりに儚い夢のようです。
そこに登場する「リンゴ」は、旧約聖書で語られる“知恵の実”を思わせます。
誰もが知る日常の果実が、恋の入り口に潜む「禁断」の象徴に変わるのです。

旧約聖書には「リンゴ」と明記されていません。
ラテン語の「malum(悪)」と「malum(リンゴ)」の言葉遊びから、禁断の果実がリンゴとされました。
歌詞に出てくるリンゴも、そんな“言葉の罠”のように、甘さと危うさを同時に匂わせます。
「ガラスの上を裸足で」―痛みを伴う出会いの暗示
「ガラスの上を裸足のまま歩く」というフレーズは、恋に伴う痛みを鮮烈に描いています。
映画の中でも、光の中で触れ合う温もりと、影に潜む鋭い痛みが交互に映し出される瞬間があります。
心を開いた途端に、思わぬ傷を負ってしまう――そんな二人の関係を重ね合わせることができるでしょう。

中世ヨーロッパでは「ガラス片の上を裸足で歩く」苦行が行われていました。
これは肉体の痛みを通じて魂を浄化する儀式。
歌詞にある痛みもまた、単なる比喩ではなく“愛による魂の試練”として響きます。
「JANE DOE」という名―匿名の少女に託された意味
タイトル『JANE DOE』は、英語で「身元不明の女性」を指す言葉です。
映画に登場する少女は、名前を持ちながらも、その正体を最後まで掴みきれない存在。
歌詞と映画の双方で「特別な誰か」でありながら「誰でもない名無し」として描かれています。

「Doe」は英語で「雌ジカ」を意味します。
捕まえようとするとすぐに森に消えてしまう鹿の姿は、触れ合った瞬間に遠ざかる彼女の儚さに重なります。
『JANE DOE』というタイトルは、愛しいのに永遠にはつかめない存在の象徴なのです。
米津玄師 × 宇多田ヒカル JANE DOE(ジェーン ドウ) 歌詞考察と豆知識 まとめ
『JANE DOE』は映画『チェンソーマン レゼ篇』の物語と響き合いながら、「触れた瞬間に消え去る恋」の普遍的な姿を描いています。
・雨宿りの出会いが生む「二人だけの世界」
・ガラスの上を歩くように、甘さと痛みが交錯する関係
・名無し=JANE DOE が象徴する、つかめない存在
映画を観た後に聴けば、歌詞の一つひとつがシーンの余韻を呼び起こし、胸を締め付けるように響くはずです。
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